三網の神紋は土師氏並びに檜前氏の家紋である。
三網紋のまん中は中知、右側は兄浜成、左が弟竹成を表し、左右で微妙に高さの違いがある。


 三社祭の歴史
 三社神輿について


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三社祭の歴史



 浅草寺縁起によれば、今から1372年前、西暦628年(推古天皇の36年)3月18 日に、宮戸川(隅田川)で投網をしていた、檜前浜成・竹成の兄弟が、漁網の中に1 像を発見し、持ち帰って土地の文化人であった土師中知に一見を請うた処、これぞ聖 観音世音菩薩の尊像(ご秘仏であるが、1寸8分の仏像といわれる)にして、自らも 帰依するところの仏像である事を告げ、その功徳を諄々と説いた。土師氏はまもなく 剃髪して沙門となり、自宅(今の駒形堂のあたり)を改めて新構の寺(浅草寺の始ま り)とし、さきの観音像を奉安して供養護持の傍ら、郷民の教化に生涯を捧げられた。
 尚、観音様ご示現の折り、天から長さ百尺ばかりの金鱗の龍が下り、歓喜勇躍 し、三日三晩お堂の周りを回ってお守りした。そしてその際、千株の松が生じたという。これが浅草寺の山号(金龍山)の由来となった  土師氏の没後、舒明11年(639年)3月18日、その嫡子が観世音の夢告を蒙り、「汝らの親は我を海中より上げて薫護せり、故に慈悲を万人に施し今日に及びしが、その感得供養の力は賞すべきなり。即ち観音堂の傍らに神として親達を鎮守すべし。名付けて三社権現と称し、祀り奉らば、その子孫土地と共に繁栄せしむべし」という 告示があり、ここに三社権現社が創建された。もちろん、この年代に権現思想(仏・ 菩薩が衆生を利益するため仮の姿を現す)は考えられないが、この記述は浅草神社と 浅草寺との全く不可分の関係を示すものとして見逃せない。やがて正和元年(1312 年)3月になると「我は是れ阿弥陀三尊なり。神輿をかざり奉り、船遊の祭礼をいとなみ、天下の安寧を祈るよう」との神託があったとも「縁起」は伝えている。今日に三社の本祭礼船渡御がめ始められたことが知られる。この記述により、「ご三神」は少なくとも、鎌倉時代初期には社殿に祀られるようになったと考えてよいだろう。ちなみに、土師氏、檜前氏共に、史上著名なる出雲氏族の東漸に伴い、当時蒼民とした 武蔵の国浅草郷に下り、その開拓に当たられた。明治初年、神仏分離令が出て、浅草 神社と改名された。なお、重要文化財に指定されている現社殿は、慶安2年、徳川3 代将軍家光公により建立され、先の主座神三柱と、後に徳川家康公と大国主の命の二 柱が合祀されている。なお、三網の神紋は土師氏並びに檜前氏の家紋である。三網紋のまん中は中知、右側は兄浜成、左が弟竹成を表し、左右で微妙に高さの違いがあることをお気付きであろうか。